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麻田浩「バルテュスとリルケ」 (『アトリエ1984年10月号より)

一人の画家のことを考えるとき、同業者のはしくれの詮索根性が、この画家を支えているものは何なのだろう、という問いを発してくるのは、いたしかたのないことであろう。一人の画家が、画業を遂行するとき──芸術家がその仕事を遂行するとき──そこには必ず、支え、それは形而下的なものから形而上的なものまで、それぞれの生きることの複雑な局面に応じてさまざまのかたちを持つものであるが、そんな何らかの支えが存在している。描く、という、いわば虚業を、不安と孤独にさいなまれつつ遂行し、その遂行によってしか自らを証明することのできない生きかたを生きていくものが「頼みとするところ」と言ってもいい。

 何ものかに支えられている、というより、さらこ確固と何ものかに保証されている、とでもいったふうに仕事を進めてきたバルテュスについては、とりわけ、この間いを発せずにはいられない。20紀前半から現代にかけて、めまぐるしく変化してきた美術潮流の中で、バルテュスの画面は静寂をたたえて変わらず、超然と描き続けられたこと、参戦して傷まで負った大戦の日々にも、画面には一抹の騎りさえもあらわれなかったこと。ここにある、したたかともいえる強さ、遂行の意志が「頼みとするところ」は一体何なのだろう。これほどの類のない超然が支えられるためには、何か尋常ではない、隠し財産めいたもの、が存在するのでは……と謎解きの欲求が詮索がましい角をふりたてて、頭をもたげる。バルテュスの画面が与える、謎めいた印象とあいまって、何かが隠されている、という思いが膨れあがってくる

1922年の写真。左からM・リルケ、バルテュス(14歳) 、その母パラディーヌ・クロソフスカ

 ここに一枚の古い写真がある。1922 年夏の終わり、スイス、べアテンベルグ。左からライナー=マリア・リルケ、14歳のバルテュス、その母親のバラディーヌ・クロソウスカ。この写真の発端は、2年前にさかのぼる。『マlレテの手記』を書き終えたあとの虚脱状態からようやく抜け出し、『ドゥイノの悲歌』が生まれ始めたにもかかわらず、戦争の勃発でこれを阻まれ、創作のいのちの澗渇に苦しみつつ、戦後、スイスへやってきたりルケは、そこで、ポーランド貴族の流れをくむというバラディーヌ・クロソウスカに出会う。1920 年の夏、彼女は、リルケにとっておそらく最後の、しかも、詩人の愛の理想概念を最も充たしたと言われている恋人となるのである。バラディーヌは画家であるが、次男のバルテュスも絵を描いていて、まだ年若い少年である彼の、一つの物語になっているデッサン集『ミツ』のために、その年の秋リルケは序文を書き、次の年出版が実現している。また、この1921年にリルケは、ミュゾットの館と呼ばれた詩作のための最後の隠れ家を、パラディーヌの献身に助けられて、スイス、ヴァレーの地に見つけ、住みつく。そして、1922 年2 月、怒溝のように『ドゥイノの悲歌』が完成する。生涯の大作の完成は、詩人に大きな安堵をもたらし、『マルテの手記』以来、苦渋に充ちた永年の魂の漂泊からようやく解放されて、一種透明な平安の時を、この写真のリルケは過ごしている。

「『ミツ』バルテュスによる40枚の絵 ライナー・マリア・リルケの序文」表紙(1921)

「『ミツ』バルテュスによる40枚の絵

ライナー・マリア・リルケの序文」表紙(1921)

 バルテュスと一緒に岡倉天心の『茶の本』の独訳を読む、というような穏やかな挿話が見られるのも、1922 年というこの年である。リルケの、パラディーヌに対する愛と感謝は深く、その思いは、彼女の二人の息子、長男ピエール、次男バルテュスへの、並々ならぬ愛情を生んだ。1926 年、死の直前のリルケを18 歳のバルテュスが見舞う、といったふうに、この二人の若き芸術家──ビエールはこの時期文学修業中、のちに小説家で評論家かつ画家でもある人物となる──と、彼等の母親の恋人である偉大なる詩人との心の交流は、若者たちが自己の人生を始めるための、数々の実際的なリルケの尽力をも含めて、さまざまのかたちをとって続く。これが、この一枚の写真に封じこめられた時間のあらましである。この写真から4年後に世を去る一人はすでに仕事を終え、もう一人の少年はこれから仕事に入っていく。この二人の人聞の交錯に、打ち消し難い暗示を感ずるのは、謎解きに熱心すぎるからだろうか。リルケと年若い少年画家との出会いを思ってみるとき、『若き詩人への手紙』が頭に浮かぶのは、ごく自然なことであろう。リルケ自身が、まだ、動かしがたい自分自身になっていないともいえる早い時期に書かれた手紙であるとはいえ、これから仕事に入ってゆこうとしている若き芸術家に語りかける言葉に、本質的な違いがあろうはずもない、と思えるのだが、リルケはバルテュスに、やはり次の自問自答を示唆したのだろうか。「自分は描かずにはいられないのか。描くことを拒まれたならば、自分は死ななければならないかどうか。」そして言ったのだろうか。真剣な自問自答の末にその深い答えが力強い肯定であるならば、あなたの生活をこの必然性によってお築きなさい、と。10歳を少し過ぎたばかりの少年に、若き詩人へのような直接的な表現はとらなかったにちがいないのだが、リルケとパラディーヌのスイスの日々の、ごく初期のうちに──バラディーヌとバルテュスは、リルケの力添えで、ジッドの許で文学修業を始めていたピエールのあとから、1924年、パリへ移り住む──リルケと少年の聞に、このことについての了解が成立していたことは、間違いなく明らかである。リルケが公にした唯一のフランス語の散文が『ミツ』の「序文」であることを思えば、彼がこの時期に、人や土地とのつながりの事情からフランス語で書き出したことに領きつつ、彼のこのデッサン集に寄せる愛着の深さ、また、それが出版され世に出ることを妥当と感じた少年の資質への信頼を見ることができるであろう。

ところで、バルテュスの画面のことだが、そこでは等しく言われるように、厳然たる存在が証明されている、にもかかわらず、いつも強い「不在」のにおいがつきまとっているのは興味深いことではないだろうか。そこでは何かが「通り抜け」ているといってもいい。あるいは、ある軽さの印象。リルケの「序文」の一部を読んでみよう。この一冊になった40枚のデッサンで語られているのは、実際にバルテュスが10歳の時に見つけた一匹の猫──ミツと名づけられるのだが──が、彼が十分に馴らし、甘やかし、可愛がり、猫はその提供された身分に喜んで身をまかせているふうであったにもかかわらず、彼を見すてて逃げていってしまう物語であるが、リルケはこう書いている。「喪失は、それがどんなに残酷であろうとも、所有に対してはなにもできないのである。喪失は所有を完結する。お望みとあらば、喪失は所有を確実化すると言ってもいいだろう。結局、喪失は第二の獲得なのである。こんどは非常に内面的で、別の強さをもった獲得なのである」ここにある喪失を「不在」に、所有を「存在」に置きかえてみることが「序文」の意図をねじまげることになるとは思えない。事実、リルケがこの頃、バラディーヌや少年達とのフランス語による交際や、スイスの風土の中で考えていたこと、彼等がパリを去ってから、軽やかに生まれ出たフランス語の詩となってさし出される思いにそれを見ることができる。人聞は、たえず時間の流れの中にあって、不確実な生存者であり、存在の不安から逃れることはできない。時間の意識を持たない動物や幼児のように、現前がそのまま永遠である世界、外界・自然と主観の境目のない「聞かれた」、事物と内面が了解し合い、関述し合う世界──「世界内部空間」とリルケが名づけるところの──には、尋常なことでは入っていきようもない。ただ、たえず来ては去る時間の中の一瞬、ほとんど「不在」と言っていいものを、詩人は言葉で称えることによって永遠に変えることができる。「聞かれた」「世界内部空間」の一存在たらしめたることができる。それによって、自らも、その世界に参加するのだ、とリルケは考える。

あかるいすみやかな愛、無関心

走りきる、ほとんど不在にひとしいもの

おまえの慌しい到者と出発との問で

ふるえるわずかな滞在

『果樹園』

バルテュスの少女たち、の存在感が、「ふるえるわずかな滞在」の持つ不在と充実に、いかに符合することだろう。いわば、充たされた「不在」。詩人は言葉で言うことによって称え、画家は絵具で描く。「序文」は年若い画家に言う。「彼の無頓着な小猫らしい快活さが、君を楽しませたのちに、いまでは君を義務づけている。君はそれを君の勤勉な嘆きによって表現しなければならなかったのだ」猫の「不在」を充たすl嘆きの深さが、勤勉さが、猫の存在の重みとなる。

 詩人と少年の聞に介在したものに、確かな証拠としてきし出されている「序文」の周辺に、「序文」を導いたものと言ってもいい、詩人と少年の母親との恋、東洋への強い関心の共有、少年の幼年時代への別れ、などの、いくつかのきわだった事情があるのだが、いつも、別離・喪失といった「不在」にいろどられている。リルケは女性との愛の関係においてもまた、確実な所有を求める。確実な所有を得るためには、別れを告げなくてはならない…。「所有なき愛」といわれるところのものである。

おまえが見

そしておまえが高め

おまえが愛しまた理解したもの

それらすべては

おまえの通り抜けてゆく風景なのだ

『戯曲集』

二人の恋人の決定的な別れの場面でこの言葉が語られるように、出会いのもっとも凝縮されたかたちは、リルケにとっては別離であり、別れをつげつつ「通り抜ける」「不在」を充たすとき、その愛は、あらゆる境界をとりのぞかれたところへ出る、というのだ。この愛の教義に従う母親の、苦しみと喜びを目撃した少年の心に、「不在」の苦しいまでの魅惑、「通り抜け」ていくことの喜ぴの手ごたえ、が響いてこなかった、とは考えるほうが難しい。スイス、ヴァレーの地とパリの聞で、愛が確かな存在となっていくのに立ち合った若き画家は、18歳の秋、死の床の詩人を見舞う。スイスへの旅の窓から若者が見たのは、詩人と自身の母親である画家が「通り抜ける」ことによって充たした風景であったにちがいない。そして同時に、彼がこれから、自らの絵筆によって「通り抜ける」風景のことを考えていたにちがいない、と想像するのは、憶測が過ぎているだろうか。バルテュスの、山や通りの画面を、自画像が「通り抜け」つつ、すなわち、別れを告げつつ、そこにあるものを永遠につながる存在──「聞かれた」「世界内部空間」の一存在──に変えていったのだと感じてしまうのは、間違っているだろうか。詩人と少年が、岡倉天心の『茶の本』の独訳をいっしょに読むに至るには、それぞれの側に、そこへ向かわせる体験を持っていた。19世紀末のヨーロッパの東洋熱、という背景の中で、少年さえもが、すでに8歳の時、日本や中国との絵に出会い感銘を受けていたし、リルケも、浮世絵への興味をはじめ、一通りの下地を持っていた。さらにリルケは、少年を知るほんの少し前、1919年にアサ(松本朝子)と呼ばれる日本婦人を邂逅し、内部に日本の魂を宿した、奥ゆかしい教養あるこの女性とのつき合いを通じて、日本への関心を強く呼ぴ起こされる。折も折1920年、「序文」を書く直前に手にした雑誌『新フランス評論』に、俳句紹介の大きな記事を見つけ、この日本の詩形式に強〈打たれる。自分でも「ハイカイ」と銘うつフランス語の三行詩を書いて、バラディーヌに贈りさえするのだ。リルケはその後、ある女流画家へ宛てた書簡で、俳句の成り立ちについて述べている。「目に見えるものが一つの確かな手に取られ、熟した果実のように摘みとられる。しかしそれはすこしの重みも持たない。というのは、それはそっと下に置かれるや否や、目に見えないものをあらわすように強いられる」またしても、詩人の手にとらえられるやいなや、目に見えるものは、現実的・日常的重宝を失うという喪失の過程があり、失われたあとに目に見えないものとなって現われてくる充実が語られている。少年は、母親に贈られた俳句のことを知っていたのだろうか。いずれにしても、詩人が少年との時間の中で、その頃、強〈心を奪われていた「ハイカイ」を話題にのぼらせなかったとは考えにくい。バルテュスの絵筆がとらえた、日常的・地上的・感覚的なものたちが、画面の上に置かれるや、現実の重みを失い、しかし、あくまで具体性を保ちながら、軽々とした、目に見えない世界の存在──リルケが言う「内的な形象」──となっているさまを見るとき、その根の一つが詩人と共有した日本体験の中から生えていると感じられてならないのだ。ミツという日本名は誰がつけたのだろう。この時、詩人と少年は、まだ出会ったばかりなのだが……。そして二人は『ミツ』が出版された翌年、『茶の本』を読む。読みつつリルケが、東洋への理解を持っこの少年をアサに会わせてみたい、と言っていたという、彼女に対する信頼と同時に、14歳という年若き芸術家への信頼の度合いを示す証言があることを言っておきたい。

 そして、見逃してならないのは、これらのことがバルテュスの幼年時代との別離のさなかに起こっていることであろう。兄のピエールの証言がある。「バルテュスは幼年時代──それは1912 年から1920 年の頃のことだが──に見えたようにものを見ることを決してやめない、と言っている」と。パルテュスがミツを飼ったのは10 歳という幼年時代、ミツがデッサン集となり、リルケが「序文」を書いたのが1920 年。幼児は、動物と同じように時の経過の外にいて、世界となんのわだかまりもなく一つになることができる。

わたしたちが未来を見るところで、動物はすべてを見

すべての中におのれを見る、そして永遠に癒されている

『ドゥイノの恋歌』

とすれば、幼年時代は、決してそれ自体の中において経験されることはなく──主観と外界に境目がないとき、経験ということは起こりようがない──そこからの別離においてのみ獲得される、すなわち、「通り抜け」によってのみ到達しうるものであろう。つまり、バルテュスが幼年時代からの別離を充たし、幼年時代を存在せしめた最初が、デッサン集『ミツ』の出版によっている、というわけだ。しかも、描くことによって実現し、リルケの言葉がそれを支えた。パルテュスが決してやめないと断言する、幼年時代の眼を持つことは、幼児のように時聞を克服し、事物と主観が合ーした「聞かれた」世界に至る試みが、描くことと同義語であるという意味においてと、そこからの別離にいつも立ち返り、自らにとっての描くことの原初をさらに高めてゆくという、二つの意味において重要なのであろう。バルテュスの画面について言われる、時間の超越・時間の停止、すべてが見えすべての中におのれが見えるように、世界と主観が感応し合い、いりまじっている印象は、この「決してやめない」意志と符合する。

 「序文」の最後にリルケは書いている。「安心して下さい。私はいます。バルテュスも存在しています。私たちの世界はしっかりしたものです。猫はいません」と。猫がいない「不在」を充たすことによって、バルテュスは存在する。猫を飼っていた幼児バルテュスはいないが、画家として生まれたばかりのバルテュスがいる。そして、そこにリルケが立ち合っている。この「序文」、あるいは、冒頭の写真に、リルケからバルテュスへの遺産引き渡し現場、といった趣きを感ずるのは、絵描きのはしっこにいる者の、同業者としての羨望まじりの好奇心のなせるわぎであるとの弁明を、詮索や憶測を極度に嫌うパルテュスは聞き入れてくれるだろうか。この遠慮のない好奇心を許してくれるだろうか。

麻田浩 1931年生まれ 画家 参考女献──

  • 『晩年のリルケ』M ・ツェマッテン着、伊蔵行雄・小潟昭夫訳1977年芸立出版

  • 『リルケ 時間と形象』B ・アレマン着、山本定祐訳1977年園文社

  • 『リルケ全集1 ~ 7』 富士川英郎監訳、高嶋英夫・高安園世・大山定ーほか訳1973-78年弥生書房

  • 『リルケと日本人』〈レグルス文庫20>高安回世著1972年第三文明社

  • 『リルケ論集』塚越敏・回日義弘編訳1976年国文社

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